ミートボールが教えてくれたこと

ちょっと前に受けたインタビュー記事を確認していて、はっと思うところがあった。その記事では”無駄な努力”に悲しくなった体験について触れてた。そう書くとなんだか強い表現だけど、誰かが誰かを想って行ったことが無駄になってしまうときは、誰しも悲しくなると思う。

子供の頃の記憶がよみがえった。
たしか小学校低学年の頃の自分の誕生日会。その日は平日で、放課後3時くらいから友達が家にきて祝ってくれた。家ではたっぷりごちそうを用意してくれていた。でも、みんな給食を食べた後だからあまり食べられない。友達は悪くないし、母も悪くない。食べ物にも罪はない。いま考えれば母は残るのを承知で作っていたと理解できるし、まあ些細なことだけど、何十年も経た今でも覚えているくらい悲しかったのだ。

デザインや言葉を書く仕事が好きなのは、その原体験がいきてるのかもしれない。他の人の考えをわかりやすくする。どんな努力の産物も、わからないと買ってもらえないし来てもらえない。わかる、伝わるのもっと前の段階だったりもする。頼ってきてくれるクライアントさんや仲間の努力が少しでも無駄にならないように、できるだけわかりやすく、見た人きいた人がわくわくできるかたちにすること。ものを作るならもっと売れるように、街を変えるならもっとたのしく戦略的に。

あの日、食べきれなかったポテトやミートボールに突き動かされてるんでしょうね。